七夕の竹キリコ

夏から秋にかけて、能登の各地域でキリコ祭りが、開催される。

それとは別に、8月7日に、高校生や中学生が中心となって、子供達運営する七夕のキリコ祭りも各地で行われている。

私の小さいときは、夏休みに入り、7月の末になるとその準備をするために子供達が集まり、先ずは、四本柱となる真竹を取りに隣村の竹藪をお持ちのお宅へ、竹をもらいにいくことが最初の仕事であった。

距離にすれば往復10キロメートルほどを歩くことになる。

小学生にとっては大変つらい距離であったと思うが、途中で蓮田の蓮の実を獲って食べたり、雑貨屋でアイスキャンディを買って食べたりと、ふざけ合いながら時間を忘れて歩いていたように思う。

まっすぐした竹はなかなか見つからず、あちこち探して歩いた記憶がある。

集落のキリコの台などがある農家の納屋に持ち込んだ竹は、年長者を中心として、昨年の竹と合わせながらほぞ穴を開け、桟(さん)を入れながら組み立てていく。

小さな子供達はといえば、農家の納屋につり下げられた太鼓の練習などをしていたように思うが、最近では、その練習する太鼓の音もなく少しさみしくに感じている。

話を元に戻し、それにあわせて、キリコの前後に字や絵を描く「なかどり」や「こじょう」(これらの呼び方は地域によって異なっている。)の紙をつくるため、障子紙を長方形に小さく切り、それを更に互い違いに、市松模様にのり付けしていく作業が行われ、大きな一枚の紙に仕上げていく。

互い違いの市松模様に貼ることで、「なかどり」や「こじょう」の中に灯りが入ると、重ね合わされたところが、線となって浮き上がって見えるので、きれいに継はぐことが求められ、なかなか大変な作業である。

できあがった大きな紙に武者絵などを描く作業が続いて行われる。

もちろん絵の得意な子供達が自分達で描くこともあるが、字の方は、地域で達筆なで知られる大人の人に書いてもらうこともあった。

ちなみに、キリコの正面、前の方には字が書かれ、後ろは絵が描かれている。

これらが完成すると、「なかどり」や「こじょう」にその紙を貼り付け、四本柱の中に組み込み、更に、キリコの台を組み立て、いよいよ完成にちかづいてきた竹キリコづくりは、8月6日の夕方に、立ち上げることになる。

台に四本柱を差し込み、固定し、はんぞ縄や御幣、酒樽、天幕等を取付け、ゆっくりと立ち上げていく。

その後にかたね棒を台に差し込み、関板をとりつけ、台の上に欄干、四本柱に提灯棚、後ろに太鼓と太鼓幕を取付け、灯りを灯すためのバッテリーを取り付けて、茅を飾り付けて完成である。

完成したキリコを先ずは集落の方々に見ていただくために、集落のすみずみまで担いで回ることになる。

その折には、各家々からご祝儀をいただいており、キリコ製作に掛かった費用や「かすもぎ」(反省会というか、慰労会というか、あとしきというか、そのような感じのもの)の費用とした。

さて、私たちの集落は、軒数が少なく、子ども達も少なかったので、中学生になると後ろを担ぐことになり、後ろは2人で担いで、前は小学生の高学年の物が担ぐなど、大変な思いをした記憶がある。

7日の当日は、町内の7つの集落全てを担いで回ることになるので、大人の人にも手伝ってもらいながら、最後の入れ宮が終わり、自分の集落へ戻り着くのは、いつも午前1時頃を過ぎていたように思う。

自分の集落へたどり着いてもそれで終わりでなく、キリコの解体をしなければならないので、家に帰り着くのは、午前3時、4時ごろであった。

家では、風呂が沸かしてあり、湯につかり疲れと落とすわけであるが、肩を見れば、ぱんぱんに腫れ上がっていた。

次の日というか、その日というか、8日は、当番の家に子供達が集まり、ご祝儀を使わせていただき、カレーライスをつくり、子供達にはお菓子なども配られ、ワイワイと騒いだものである。

ちなみに、それまでに使った材料費等については、お通い帳という物があり、全てツケで購入して来るのであるが、地域の人たちは皆、そういった習慣を承知しておられるので、難なく購入できた。8日にお通い帳を持って精算しに回るのであるが、何ともおおらかな土地柄である。おそらくその習慣は今日でも続いていると思う。

8月7日には、珠洲市宝立町で七夕キリコ祭りが盛大に開催されており、是非見に来ていただきたいが、その他の地域でもこういった七夕キリコが町内を練り歩いていると思うので、一歩踏み込んで、珠洲市内を回って、様々なキリコを見てみるのもおもしろいのではないかと思う。

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